5.22☆長崎・聖福寺にて揮毫奉納配信します☆

令和2年5月22日(金)午前11時〜長崎・聖福寺よりLIVE配信致します。

慶応3年(1867年)5月22日、わが国に小さな歴史が刻まれました。

そして153年が過ぎた今年、その地・長崎市玉園町にある万寿山聖福寺にて
第2回目の奉納揮毫が催されます。

【いろは丸事件談判】

その名で知られるこの歴史的事件は、
慶応3年4月23日の早暁、今の広島県・鞆の浦沖を航行中だった
伊予大洲藩所有で土佐藩が借用し、坂本龍馬の海援隊が運行していた「いろは丸」に
紀州徳川家の明光丸が衝突し、いろは丸が沈没。
乗船していた坂本龍馬の的確な差配でいろは丸乗組員は全員事無きを得たが
積載していた積荷は全て海の藻屑となった。

その賠償金について、
紀州徳川家と海援隊とで鞆の浦にて話合いの席が持たれたが
紀州家側は幕府に裁定を任せるとしたのに対し、
龍馬は当時まだ日本では流通していなかった「万国公法(国際法)」に基づいて
明光丸側の過失を責め賠償金を要求した。
仕方なく紀州藩が一千両を示したが龍馬は満足せず、賠償金全体の一時金として一万両を請求。
交渉は決裂し紀州藩は藩命を優先して長崎に向かってしまう。

その後、場所を長崎に移して、交渉を持とうとするが
万国公法を根拠に賠償金請求する龍馬に対し
長崎奉行所(幕府)の裁定を主張する紀州家で平行線が続く中
龍馬が長崎の花街で「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」という
俗歌を流行らせて紀州家側を精神的に追い詰め
薩摩藩・五代友厚の取りなしなどもあり
現在の貨幣価値で160億円を超える賠償金(およそ8万4千両)を勝ち取った。

その結審の場所が、長崎市玉園町にある万寿山聖福寺と言われています。

なぜ、聖福寺が結審の場所になったのか?
それは、聖福寺の成り立ちに起因します。

万寿山聖福寺は「長崎四福寺」と言われる唐人寺です。
唐人とはいわゆる中国人のことで、長崎には
興福寺、崇福寺、福済寺、聖福寺と「福」の字が入る4ヶ寺の唐人寺があります。
江戸時代、長崎は出島を通じて世界と交易をしていましたが
そのため中国人や、オランダ人が商いのために街に滞在しました。
しかし、禁教とされるキリスト教徒ではないことを証明しなければ市中に出られず
どこかのお寺に所属する必要があります(寺請制度)。
その唐人(中国人)を引受けたのが唐人寺でした。
中でも聖福寺は一番最後に創建されたお寺で
建設の際には長崎奉行の斡旋など、幕府の庇護を受けていました。

そのため聖福寺は、幕府や徳川家関連の藩などが長崎に滞在する際
宿泊施設として使用されていました。

そうです。
紀州徳川家が滞在していたのが聖福寺だったのです。
龍馬たちは、まさにアウェー(敵地)である聖福寺に乗り込み
賠償金を勝ち取ったのでした。

さだまさし原作の映画『解夏』の撮影の舞台にもなった万寿山聖福寺。写真は大雄宝殿(本堂)。

万寿山聖福寺は一昨年9月、国指定重要文化財に
伽藍の中の4基(大雄宝殿、天王殿、鐘楼、山門)が指定され
建物の傷み具合から大掛かりな修復事業の準備を進めています。

しかし、元々唐人寺です。元の檀家だった唐人はほとんどおらず現在の檀家は20軒ほど。

寺の経済力だけでは到底修復事業を賄いきれません。
そこで和プロジェクトTAISHI代表の宮本辰彦氏が
この現状を広く知らしめようと奉納揮毫を提案され
昨年から始まったのが

【5.22 和の国日本 日本人よ、世界の龍馬になれ!】

でした。
今回がその2回目となります。
1回目の昨年は長崎の聖福寺と、龍馬のふるさと、高知駅前広場にて
観客が見守る中で同時に揮毫を行い
NHK含め4つの放送局が2箇所を結んで放送されていました。

今回は残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から
無観客にてこのライブ配信と収録した映像を元に再編集したものを
後日配信する形となります。

また、書家の奉納揮毫には、
感染で苦しむ皆様の1日も早い回復とコロナ災禍の終息の思いも
合わせて祈願されます。

さらに合わせて今回、新しいプロジェクトについての発表がなされます。
是非皆様、令和2年5月22日(金)午前11時からライブ配信をご覧下さい。

よろしくお願い申し上げます。

KAMUI ENTERTAINMENT
代表取締役 監督 日浦明大

※なお、今後KAMUI ENTERTAINMENT(株式会社 花夢威)は万寿山聖福寺修復事業
並びに和プロジェクトTAISHIの活動を全面的に支援してまいります。
合わせてご理解・ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

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