※そんな訳ないやろ?と思った人は記事を読みましょう。

 私は、令和2年12月21日(月)、私は快晴のシネ・リーブル梅田のとある部屋で、芳賀俊監督と主演女優・笠松七海と共にテーブルを囲んだ。メモ係として大地朋子女史(【TEAM 9 NINE】)と並んで。
 映画『おろかもの』の不思議な魅力について解き明かすためだ。同作には、誰が聞いても『ああ、あの人ね』とわかる俳優やタレントは出演していない。映画やドラマに出演していたり、自主制作映画の世界では常連的な役者は確かに顔を並べてはいる。しかし、役者や監督らの知名度で観客動員をはかる、いわゆる《メジャー映画》ではない。だが、この作品には観る者を惹きつける何かがある。何かが。
 2019年度田辺・弁慶映画祭にてグランプリを含む5部門で受賞した映画『おろかもの』の監督・芳賀悛と主演女優・笠松七海にその秘密を聴いてみた。(敬称略。文・岩崎与夛朗)

映画『おろかもの』あらすじ
 もうすぐ結婚する兄の浮気現場を見てしまった高校生の洋子。兄への怒りなのか?憤りなのか?それとももっと違う何かなのか?どうしようもない感情を持て余して浮気相手・美沙に会ってみる洋子。しかし美沙は洋子の予想とは違い、しなやかで、したたかで、もろくて、弱そうに見えた。洋子は思わずある提案を持ち掛ける。その時から2人は不思議な共犯関係を楽しみ始める。

圧倒的な存在感に惹き込まれる

ファーストシーンから、私は惹き込まれていたんだと思う。
圧倒的な画力というより、笠松七海演じる洋子が見つめる、その瞳に惹きつけられていた。
彼女の黒髪や頬、目に映える様々な光線の色合いが彼女の表情をより強烈にそして自然に演出していた。
それは芳賀監督のまさに狙い通りだったことはすでに出ている別のインタビュー記事で知った。
日本大学芸術学部・映画学科撮影コースを卒業し、撮影部として現場で経験を積んで来た彼らしい演出だった訳だが、
そのことについて聞くと彼は意外なことを言った。

良い画だなと思われたら負けだと思うんです

良い画ということは、それはカメラマンを褒めている訳だが、映画を楽しんでいるはずの観客にカメラマンを意識させるということは、役者ではなくカメラマンが前に出ていることになる。

観客の頭に残るのは役者の顔だったり演技だったりするべきで、純粋に作品を観客に届けるべき

と彼は続けた。
ファーストシーンの洋子の表情からはじまる物語とその演出を口にした私に、

それはカメラマンではなく役者を褒められたのでめちゃくちゃ嬉しい

そう喜んでくれた。

素晴らしい役者たち=アベンジャーズ

彼の口からはインタビュー中、いくつもの《芳賀流のこだわり》が飛び出して来た。
そのどれもが映画を愛してやまない彼の熱量を感じさせてくれた。
そもそも本作は、芳賀監督が撮影で参加した他作品(『空の味』など)で笠松七海と出会い、
彼女を主演で映画を撮りたいという思いから始まった作品だった。

彼女のようにいい表情をする役者はたくさんいる。彼女のような役者がいるんだぞということを見せたかった

確かに本作では笠松七海だけではなく、美沙を演じた村田唯といい、役者の表情を捉えたカットが多いのも特徴だ。
そこには芳賀監督の思いが込められているということなのだろうが、それは作品に良い作用を与えている。
映画はあくまでも芝居なのだが、肝心の芝居が観られないような作品も多い。
視点を恣意的にズラされて、観たい芝居が流れてしまう、そんなフラストレーションはこの作品にはない。
それは役者の表情や物語の流れを余すところなく切り取ろうとする芳賀監督の信念があるからなのだろう。

しかし、撮影現場では往々にして不自然な立ち位置というものが生まれる。
実際に現場で肉眼で見ると不自然極まりないのだが、カメラを通して観ると自然な立ち位置というのは存在する。
例えば、向き合った役者を撮影する時、真横からではなくどちらの表情も画面に収めようとすると、
カメラを通して観ると自然に見えるのだが、現場で見るとどちらかの顔の向きは不自然になってしまう。
それは映画やドラマの撮影では良くあること。
しかし、役者は芝居に熱が入るとつい相手に正対しようとするし、そうなると表情がカメラに収まらない。

このジレンマが本作の撮影で起こらなかったのは、役者と監督との関係性がそうさせたと芳賀氏は自慢する。
役者の皆が監督である彼に引力を感じ、カメラのレンズを意識して芝居してくれたからだと。この時をして彼は

神になれた

と無邪気に喜んだ。

大学卒業後、数々の現場を撮影部として経験しながら、納得のいかないカットでも指示を受ければ撮らねばならない。
大学で映画撮影を専門に学んだ彼としては歯噛みしたくなる現場もあったのだろう。
しかし、この現場では彼は監督であり、神である。
思い描いたシーンを重ねる、思い通りの撮影ができたことは何よりの痛快事だっただろう。

ただ、こうもいう。

カメラを通して役者の芝居を一番に堪能できる。監督ではなく映画の最初の観客になれる最高に幸せなポジションだ

という。
それはつまり、映画ファンの感性で観たい画を撮り重ねていくということだ。
彼の視線はいつもスクリーンの前にあった。
だから役者たちの芝居をカメラが美しく追いかけていく。
その時、まるで観客席に座っているように撮影現場のモニターに”映画”が映し出されていたのだ。
まさにそれは「神」のみに許されたことだ。

アベンジャーズでありマッドマックス!?

今作に対して、芳賀氏がとても満足していることは確かだ。
もちろん、次作へステップアップするための課題はあるのだろうが、
作品としての完成度もさることながら、今回参加した俳優やスタッフと
共に作品が作り上げられたことへの満足度はかなりなものなのだろう。

それを表す最たる言葉が”アベンジャーズ”だった。

彼は今作の現場に参加した俳優やスタッフをして”アベンジャーズ”だと、確かに言い放った。
これを単なる自己満足と切り捨てることができないのは、丁寧に作り上げられた作品がそこにあるからだろう。

彼はこうもいう。

少人数でも10億かかる映画よりも、エンターテインメントで後世に残る映画を撮りたい

私は彼の言葉に大いに同意する。

誰にも理解できない”作品”よりも、血沸き肉踊り、腹を抱えて笑い、
声を堪えて涙する映画を、できれば後世の人も喜んでくれるような”映画”を残したい。
それは監督として作品を製作する上で常に意識していることだ。
だからこそのKAMUI ENTERTAINMENTなのだが、
その話は置いておいて話を『おろかもの』に戻そう。

芳賀氏はいった。

人は複雑で、愚かで、だからこそ愛おしい

これは、芳賀氏の今作を作る際の視点だ。おそらく、彼の人間観なのだろう。
だから登場人物は皆、どこかで見た事があるような親しみの湧くキャラクターが多い。
その中に「かしこい」人物はいない。
結婚を直前に控えて浮気している「兄」を「かしこい」とは呼べないだろうし、
その浮気相手と内緒で会って共犯関係になってしまう「妹」もそうだ。
その周囲にいる人間すべてが「かしこい」人間とはいえない。

では、それは非現実的で荒唐無稽なファンタジーだと言い切れるのだろうか?

確かに、この物語には飛躍が多い。
特に主人公・洋子の言動には必ず飛躍がある。
「そうでなければ物語は面白く転がらないから」といってしまえばそうなのだが、
そんなご都合主義と思われないのは、
主演の笠松七海や村田唯の演技の賜物と、
そこに現実味を与えるカメラワークを駆使した演出があることはいうまでもない。

では、それだけが理由なのか?
芳賀氏はいう。

人の心はわからないものですよね。心は目に見えないですから

こうだと周囲が思っていても真逆の行動をとったりするのが人間。
ジッと観察していてもわからない行動をとることが人にはままある。
それぐらい人の気持ちを理解することは難しい。

しかし、彼はこうも言い放った。

マッドマックス〜怒りのデスロードでもそうだったでしょ?
余計な説明がほとんどない。
無いのに何となく過去がわかる。役者の顔を見て、
目線とかちょっとした表情から過去を描かなくても察したでしょ?
この作品もそうです。
アベンジャーズ(芳賀氏が選んだ素晴らしい役者たちの意)がそれを見せていってくれている。

つまり、この作品は『マッドマックス』であり『アベンジャーズ』ということのようだ。

「時代」への視線

本作では、結婚直前の兄を持つ”妹”とその兄の”浮気相手”が主人公だ。
現代はSNS花盛りで、こと社会的に「不道徳」と思われる行為を行った者に対して、
恐ろしいほど攻撃的なところがある。
芳賀氏はこれを「不寛容な時代」といった。
《不倫》《浮気》という行為そのものを正当化している訳ではない。
どちらにしても傷ついている女性をただただバッシングする世の中に
違和感を感じるという芳賀氏に、私もまた同意する。
少なくとも当事者でなく、まったくの赤の他人である者たちが、
介入して当事者になる訳でもないのにひたすらバッシングすることに
閉塞感を感じている人は少なくないだろう。

痛みや苦しみを抱える人に救いとなる映画でありたい

実は、本作には映像的にある仕掛けが施されている。

その点について芳賀氏に尋ねると、それは彼の狙いであったことを白状した。

それがどんな仕掛けであるかは、読者ご自身で感じていただくしかないが、
一つのヒントとしていえるのは、この作品を作り上げる際、
芳賀氏がいい映画になることを確信した瞬間の話がある。

それは脚本を担当した沼田真隆氏がアイデアを芳賀氏に語った時だったという。
まだ何も具体性がない。
ただ、ファーストシーンとラストシーンのカットが思い浮かんだ時、
なんて美しい物語だと芳賀氏は感じた。

そして、そのファーストインプレッションから導き出されたある計算が、本作を通じて施された。
それは、この文の冒頭に書いたように、ファーストシーンの笠松七海のカットから既に始まっている。
そう。私はその瞬間から芳賀氏の魔法にかけられていたのだ。
”神”から提示された最初の”課題”として、
主人公の表情の意味を解き明かすため、私は最後までこの映画を見続けた。
そしてラストシーンこそ、芳賀氏の思いが込められたシーンとなっている。

不寛容な時代に、かぼそい一縷の希望を表現した

果たして“希望”と感じるのか?
別な感想を持つのかは観客次第だろう。
それこそ、どうしても不道徳を許せず浮気相手をバッシングしたい人もいるのかもしれない。
ここで芳賀氏の映画を作る際の視点を思い出して欲しい。

人は複雑で、愚かで、だからこそ愛おしい

なるほど。

深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いている(ニーチェ)。

「おろかもの」を見ている我々もまた「おろかもの」な訳だ。
だからこそ、愛おしいと感じるのかもしれない。

たまには「おろかもの」になるのもいい。
そう思わせてくれる映画だと私は思うのだが、皆さんがどう思われるのかは知らない。良
ければ映画館で観て、その感想をお聞かせいただければ幸いである。

映画『おろかもの』関西での公開予定
3月12日(金)〜 京都みなみ会館
3月13日(土)〜 シネ・ヌーヴォー
4月17日(土)〜 神戸アートヴィレッジセンター

主演の笠松七海さんと芳賀俊監督。シネ・リーヴル梅田にて。
ライター紹介:岩崎与夛朗 / Iwasaki Yotaro

脚本家、ライター、時々映像ディレクター。
映画『たいようのドロップキック』脚本参加、映画『YOSHI王-誕生編-』脚本
その他、PV等のディレクター、記事ライティングを担当